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東日本大震災から13年 

 東日本大震災が2011年3月11日に発生してから13年が経ちました。毎年この時期に、この地震を忘れないために当時の桜保険の被災の様子なども含め、ニュースに載せてきました。今回は、今年元日に起こった私のふるさとの能登半島地震について書かせていただきます。

 

 2024年元日、私は午後の散歩を終えて帰宅しました。一息入れようとTVのスイッチを入れたとたん、女性アナウンサーの叫び声が聞こえてきました。「テレビを見てないで逃げてください」の連呼。さらに声のトーンがあがり、「3/11を思い出してください・・・」、「今回は、津波がすぐにやって来ます。最大5メートルにもなります」。アナウンサーの絶叫のような声に、びっくり!画面のテロップでは、「輪島、珠洲の能登半島地震、マグチュード7,6が発生しました」の文字が場面の左から右に流れていました。

 TV画面を見る私の目は海面を映す映像にくぎ付けになり身体はこわばりました。一瞬、生まれ育った実家が津波でなくなるような気がして・・・、東日本大震災時の大きな津波の映像が頭によぎりました。

 私の実家は、石川県羽咋郡宝達志水町で、海岸から歩いて10分程度の距離にあります。  また、近くには 志賀原発があります。今、東京に住んでいる私には何もできません。家の倒壊や津波が来ないことを祈るしかありません。神頼みしか出来ず無力な私でした。

 時間が経過するにつれてTV画面から流れるアナウンサーの声の内容が少しずつ変化してきました。大津波警報から津波警報へ、更に津波注意へ。不安は続きます。

数時間が経過して夕闇となり、私の住み慣れた古い実家を思い出しました。実家の近くに住んでいる友人の携帯とつながりました。彼(友人)は家族を車に乗せて、宝達山(石川県の最高峰、637m)へ向かっている途中とのこと。自宅にいたが大揺れの為、いたたまれず外に出た。避難警報に従って家族の命を守るため移動していると、不安そうな声でした。しかし、時間がたち津波警報が注意に変化したとの情報を聞いたので自宅にUターンを検討中とのこと。実家のことは聞けませんでした。

 一夜明けました。TVは、早朝から輪島の朝市の火事、珠洲市、そのほかの市町村の家々やマンション、神社の家屋倒壊、海岸の隆起、更に津波の破壊の悲惨な映像を映し出していました。自然災害と理解しつつも涙が止まりませんでした。

  能登半島地震で被災された皆さまに心よりお見舞い申し上げます。地震・津波災害に対し、老若男女を問わず、尊い命が大切にされること、そして自助、共助だけでなく公助が充実する社会を願わずにはいられません。(所員H)